Dunga

私は絶えず「勝つ」という目的意識を明確に持ってサッカーに取り組んできた。

サッカーを難しくしているのは、我々人間である。

たとえ素質があっても、スピリットや自己犠牲、多くの我慢を許容できなければ、成功を収めるのは難しい。

勝利とは刃物の上に立ち続けるようなものだ。いつまでもそこにはいられない。

調子のいい時に他人を軽蔑しないこと。そんなことをしたら、今度は自分が上手くいかないとき、誰も手を差し伸べてはくれない。

うまくいっているときほど謙虚にならなければならない。

我々はまだ勝たなければならない。なぜなら我々はブラジルなのだから。

私は一度もうなだれることはなかった。いつも頭を上げ、前を向いて歩いた。

なぜなら自分はその時々で、出来るだけの事をしてきたという自信があったからだ。

人生において勝利を得る方法はいろいろとある。しかし、苦労を伴わずしてそれを得ることはできない。

勝ったときも負けたときも、同じ人間でなくてはならない。

サッカーは理屈じゃない。身体の芯まで、やるべきことをしみこませるスポーツなんだ。

優勝しないチームは、早々と脱落するから苦しむことがない。優勝するからこそ、勝ち抜くために苦しむんだ。わかるかい?

カルロス・カエタノ・ブレドルン・ヴェーリー(Carlos Caetano Bledorn Verri, 1963年10月31日 - )通称ドゥンガ(Dunga)はブラジル出身の元サッカー選手。ポジションはMFボランチ)。

ブラジル代表として1990年1994年1998年ワールドカップに出場した。2006年7月より同国の代表 監督に就任している。

ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州でドイツ系およびイタリア系移民の家に生まれた。あだ名の「ドゥンガ」は「白雪姫と7人のこびと」に登場するこびとたちの中でもっとも若い「おとぼけ(dopey)」に由来し、子供の頃身長が低かったため父親の友人に名付けられたと語っている。

出身地から近い名門インテルナシオナルでプロデビュー、イタリアに渡りピサフィオレンティーナペスカラで活躍した。1990年のワールドカップに出場した際には、ブラジルの早期敗退の原因としてGKのクラウディオ・タファレル、監督のセバスティアン・ラザロニなどとともにメディアから厳しく批判された。ドイツのVfBシュトゥットガルトなどでプレーした後、1995年か ら日本のジュビロ磐田に所属した。円高不況のあおりをうけて大幅な減俸を提示した磐田と金銭面で折り合いが付かず1998年に退団した。その後は古巣インテルナシオナルで1シーズンプレー後に現役を引退した。

引退後は「市民能力開発のためのドゥンガ財団」の代表として社会福祉活動などに従事するとともに、1999年から2004年にかけてはジュビロ磐田のチームアドバイザーも勤めた。

カルロス・アルベルト・パレイラの後任として2006年7月にブラジル代表監督に就任、監督およびコーチ経験の無いままセレソンを率いることになった。

監督就任以降はフレッジロビーニョシシーニョなどの若手選手を積極的に起用している。その一方でベテランのカフーエメルソンゼ・ロベルトロナウドなどは招集されていない。

パレイラが重用していたアドリアーノカカロナウジーニョからなる通称「カルテット・マジコ」にたいしては「前線にアタッカーを4人並べる危険なことはしない」と否定的である。守備重視の戦術を採用しておりブラジルのメディアからはつまらないサッカーだと批判されていた。[1]

南アフリカW杯の南米予選においては前半戦で3試合連続無得点を記録し一時は5位にまで後退したため、スタジアムのファンからブーイングを浴びメディアからも厳しく批判されたがその後は持ち直し、9月に行われたアウェーのアルゼンチンに3-1で勝利し第1回大会から19回連続となるW杯出場を決めた。[2]